こんばんは!
昨日はワクチン接種4回目の副反応で1日寝ていました。
同居のお義母さんが、ワクチン4回目打つと言い出したから、予約していたんです。
で、私も予約とる事になりまして、義母より先に打ちました…来週は義母の番です。
まあ何だかんだと4回も打っていますが、今回の副反応が一番楽だったかな〜。
熱は上がったり下がったりでしたが、夜にはすっかり良くなっていまして。
先々どうなるかワカランと言われてしまうと、もうどうしようもないですが。
とりあえず終わりました。
そんな訳で、4回のワクチン接種の中で一番、楽な副反応だった?とはいえ…発熱倦怠感はありましたから。
昨日は1日転がっていました!
そしてひたすら読書していました!
古代史の本を読んでいました。
主に葛城氏の本やら読んで、最後に支石墓の本を読みました!
私は先月11月に奈良に帰省したわけですが。
その際、まさに葛城地域をウロウロしていたわけです!
葛城氏に関しても、古代を代表する有力な豪族……なんてザックリ言われているかもですが。
そもそも「葛城氏」等の氏が成立したのは5〜6世紀だ云々。
本当に個々の人が、葛城氏と呼ばれたのか?
葛城地域の「○○(名)」と言う意味だったにしても、後々に朝廷に出仕した一族と葛城国造をつとめた一族とか、系統が様々あったりしたと思います。
まあそれはさて置き。
その深い歴史の場所、葛城地域を私は11月に実際にウロウロしていたんですよね。
その旅で、私の一番の目的でしたのが。
こちら、室宮山古墳!
こちらは八幡神社になっていて。
登っていく感じで古墳を体感します。
ちなみに、こちら八幡神社は孝安天皇の宮があった近辺云々らしいです。
初期天皇さんの山陵や宮が葛城や高市郡の地に多いのも、なんだか気になるところ。
そして、この室宮山古墳。
最近は葛城襲津彦の墓ではないかとの事も言われているようです。
この人物は実在するのでは?といわれはじめています。
しかしながら、こちらの古墳は。
伝武内宿禰ともあるわけです。
おやおやと思った次第です。
武内宿禰…なんかは、諸氏の共通祖として創作された人物(?)でありましょうね。
そんな武内宿禰の墓と伝わるのが、なんだか面白いなと思いました。
所謂、その地域で「そう伝わる」ってのも、私は軽くみれない気がするんで、割と注目しちゃうんですが。
武内宿禰ときたからには、漠然としすぎて難しいかなと思ってしまいましたw。
武内宿禰は葛城氏の他にも巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏などの共同の祖だったりしますから。
で。
古墳を登る。
ふう!
ごらんください。
あの小さな穴から実際の石棺を見る事ができます!
大王の柩といわれる長持形石棺!
穴は盗掘孔!
室の大墓と呼ばれているだけに、立派な前方後円墳!
かなりの権力者の墓なんでしょうね。
先程も書いたように、葛城襲津彦の墓ではとの話ですが。
本当でしょうか。
時代的には5世紀初頭との事。
葛城長江曽都毘古(かづらきのながえのそつひこ)。
※古くは、「かつらぎ」を「かづらき」と言った。
神功皇后紀、応神天皇紀、仁徳天皇紀にわたる記事に記されている人物(?)なわけだけども、その記事全部が本当に本当ならば。
205年から350年?にわたり生きていた事になるもんですから。
実在性やいかにと、少々疑いもあります。
ソツヒコはむしろ、葛城地域の王達の集合体の姿?形象化された姿が葛城襲津彦なのではとも思ったりする。
私においては、そういう考え方が割りとあって。
古代史の中のさらに古い古代(なんのこっちゃ)においては、これは一人の人間!!として捉えるよりも、漠然としてしまうが、地域の代々の王や集団を擬人化した姿と見ると、スルッとまとまるような気もしたりするのです。
全部が全部じゃありませんが。
室宮山古墳は。
まさにそういった。
葛城の王の墓には相応しい墓であるのは間違いないですよね。
甲冑・ゆぎ・盾・家などの埴輪が石室の上に並べられていたと言いますから、かなりの迫力ですね。
石室内からは刀剣類や鏡片、勾玉、なつめ玉やら石製品やら(適当でスイマセン)、とにかく工芸技術の迫力といいますか、この古墳の造営に関わった葛城の人々の生産、技術力の高さを想うのであります。
今は葛城襲津彦は実在したよ説の方が多勢かもですが。
私は今ひとつピンときてない派です(*´ω`*)
まあしかし。
何でこんな型なのかな?
それが昨日読んでいた「支石墓の謎」という本にサラッと少々書いてましたから、また紹介したいと思います!
ではではまた└( ^ω^)」
写真は室宮山古墳の堀(池?)の近くで、家族で一緒に食べた、母作のお弁当!
美味しかったな、また行きたいな〜♪